世界に広げようEDAの輪! 第1回 TOOL社 本垰秀昭氏

EDA Express読者の皆様こんにちは。当サイト運営責任者の菰田(こもだ)と申します。

この度EDA Expressでは、サイトのリニューアルに伴う新企画として、連載コラム「世界に広げようEDAの輪!」を開始する事に致しました。

新コラム「世界に広げようEDAの輪!」では、執筆者の方にEDA業界との接点やご自身の経歴・活動、業界への想い・提言などを自由にお書き頂き、EDA業界関連の次なる執筆者をリレー形式ご紹介頂くというスタイルで、業界の輪に則った紳士録を築きあげて行きたいと考えております。

本企画の開始にあたり、トップバッターとして日本のEDAベンダTOOL株式会社の社長としてご活躍の本垰秀昭(ほんたお ひであき)氏に記事の執筆をお願い致しました。

TOOL社は数少ない日本のEDAベンダとして、バックエンド設計分野を中心にワールドワイドでソリューションを展開。国内をはじめ北米やアジア諸国でも導入されている同社の旗艦製品「LAVIS」は、顧客の細かなニーズを吸収してくれる解析・編集機能付きのレイアウトビューワとして、設計現場で重宝されています。

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■世界に広げようEDAの輪! 第1回 「私が初めて"世界"を感じた時」   TOOL株式会社 代表取締役社長 本垰秀昭

執筆の依頼を受けあれこれ考えましたが、テーマと"世界"つながりということで「私が初めて"世界"を感じた時」と題して徒然なるままに書くことにします。

それは1980年代後半に、あるEDA関連商社が主催したDACツアーに参加した時の話です。
まだバブリーな時代でした。北米のEDAベンダー3社(ニューヨーク、ワシントン、オースチン)を訪問し、サンフランシスコで開催のDACに参加するという企画でした。当時はもれなくビジネスクラスでのフライトで(良かったよなぁ)、私にとってはアメリカ本土に足を踏み入れるのも初めてでしたが、ビジネスクラスも初体験でした。シートは今のようにフラットにはなりませんが、ガラスのワイングラスや陶器の丸いお皿に感激しました。ニューヨークまで一気に飛び、エンパイヤステートビルで見た摩天楼の夜景と、シーフードレストランで食べたクラムチャウダーの味にアメリカを感じ、オースチン郊外の丘の上にあるBBQレストランからの見渡す限り広がる森と荒野の眺めにアメリカの広さを感じ、BBQの量の多さでテキサスサイズを感じ、テキーラで酔いつぶれて、私の周りの"世界"がグルグル回るのを感じました。

閑話休題、当時の自分の会社での開発環境は、マシンルームにミニコンとEWSが何台かあり、それをみんなで奪い合って使い、シリアルポートにVT端末をつないで使い倒していました。端末が空くまではリストを見ながらのデバックで、生産性は高いとは言えませんでした。でも、そのおかげで、しっかりとロジックを追っかけてレヴューができるので、かえってバグ頻度は少なかったようにも思います。

そのDACツアーで訪問したEDAベンダーの環境はというと、まず開発者それぞれに完全に独立したドア付の個室があり、そこには専用のEWS1台とマッキントッシュ1台が備わっていました。マシンを奪い合うことも、周囲の雑音に邪魔されることもなく、自分のペースで開発に専念できる素晴らしい環境でした。

更にマシンルームには、個人用とは別にあらゆる種類のマシンが整然と並んでいました。これらは評価用途にひととおり揃えてあるとのこと、羨ましい限りでした。「いやー自分の会社も同じだったよ」と言う日本の方も居られるかも知れませんが、少なくとも開発者にまで個室が与えられることはなかったのではないでしょうか。

当時はメーカーも自社開発を多く行っており、国内のEDAベンダーもありましたが、北米発のEDAベンダーがどんどん台頭していた頃で、環境の差をまざまざと見せつけられ、その時は、これはかなわないと落ち込んでしまいました。カルチャーショックでした。この時初めて"世界"を感じました(アメリカだけど)。

その時のDACは、規模は今の半分位だったように思います(最近は減っちゃってるけど)。
近くのホテルのスイートルームでプライベートデモをやったり、夜もパーティを開催したりと、自分には経験のないことでしたので、「これが本場のEDA業界か」っと変な思い込みも含めて、EDAの"世界"を感じました。

話は逸れますが、英語でも苦労しました。EDAベンダーとのワークショップの時は通訳さんも付いていた(贅沢だったなぁ)ので何とかなりましたが、夜にディナーパーティもあり、ベンダーの方々はイブニングドレスをまとった奥様もご一緒で、この時は通訳さんは居ないので、英語で話すしかありません。ジョークを言われても分からず、とりあえず笑ってごまかすしかありませんでした。お昼にファーストフード店に行って、「ポテトは如何ですか?」と同じ位、いやそれ以上にお決まりの「Anything else?」と聞かれても、最初は全く聞き取れませんでした。

けれども、英語は苦手でしたがプログラミング言語は得意でした。当時、北米で書かれたソースコードに触れる機会もありました。SPICEのソース(FORTRANだった)やX-WindowやUNIXのソース(C言語だった)などは、とても綺麗に書かれており、参考になりました。しかし、北米で書かれたものは、すべて美しいかと言うとそうでもなくて、北米産ツールの移植を何度かやりましたが、冗長でとても読みにくく、書き直したくなることもしばしばありました。プログラムを作る力では、日本も決して負けていません。"世界"を感じて帰ってきたわけですが、やっぱり落ち込む必要はないし、日本だって、自分だって、負けちゃいないぜぃ、と気を取り直しました。

その後はバブルがはじけてDACに行ける機会もなく、90年代を雌伏して(冬眠かなぁ)過ごし、21世紀を迎えようとする頃、微細化はどんどん進み、OPCも実用段階に入り、段々データ規模が大きくなってGDSのファイルサイズも2GBを超えようとしていました。既存ツールではデータサイズに対する限界が見えてきました。

これらの課題を克服するべく、世界に通用する大規模データ向け超高速レイアウトビューア(現LAVIS)の開発に着手しました。正式リリースまでには2年以上の期間を要しましたが、世界最速と自負できるレベルに達することができました。まずは国内での販売を開始し、2003年にDACに初出展することになりました。

初めて"世界"を感じてから10数年、遂に"世界"デビューです(DACだけど)。
私も含めて誰もDACへの出展の経験はありませんでしたので、すべてが手探りでしたが、社外の多くの方々にも助けて頂いて、何とか出展に漕ぎ着けました。そのブースは、とても貧相でしたが、それでも引き合いもあり、手応えは十分でした。その後もDACに出展し続けて、北米の顧客も着実に増え、昨年は北米支社を開設するに至りました。アジア、ヨー
ロッパ、インドの顧客も増え、まさに"世界"を実感しています(北半球だけだけど)。

海外へ出かける機会も増えましたが、いまだに英語では苦労しており、技術単語を並べ、ホワイトボードに絵を書いてしのいでいます。お決まりの「Anything else?」には慣れましたが、あるファーストフード店で聞かれる「Onion?」は何度聞いても、いまだに聞き取れません。英語での"世界"への道は遠いです...

そんなこんなで話を終わらせたいと思います。百年に一度の未曾有の事態とのこと、「ピンチをチャンスに」の精神で臨み、臆することなく日本発"世界"標準を目指して参ります!

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次にバトンをお渡しする吉田秀和氏は、吉田さんがEDAベンダーに在籍していた時に知り合い、以来お付き合い頂いている、サンノゼ在住の方です。日本事情とアメリカ事情の両方に精通し、EDAベンダーとデバイスメーカーの両方を内面からもご存知の方です。

テーマが「世界に広げよう!」ですので、バトンも一気に日本を飛び出してアメリカにリレーします。若くしてアメリカに渡ったサムライの面白い話を聞けることと思います。(頑張れサムライジャパン!)

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<筆者プロフィール>

 本垰秀昭(ほんたお ひであき)
    TOOL株式会社 代表取締役社長
    TOOL America, Inc. CEO

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略歴
1980年、株式会社トウール社に入社、プログラム開発者としてレイアウト系CADツールの開発に従事。
2002年、自社開発製品の事業拡張を目的に、TOOL株式会社が設立され、同社 代表取締役社長に就任。
以降、EDAツールのワールドワイドな展開を目指して活動、現在に至る。